死の“向こう側”にあるもの 桃井かおり・イッセー尾形『ふたりの旅路』

interview by CHINATSU MIYOSHI photo by YOSHIKAZU NISHIKI

 

桃井かおりとイッセー尾形の2人が夫婦を演じる最新作『ふたりの旅路』は再生の映画だ。大切なものを失うこと、何かに傷付けられること、そしていつか、自分の生が終わること。いま生きているすべての人々に課せられた、決して逃れることができない展開や結末と対峙し、受け入れ、さらに先へと進む術をこの映画は見せてくれている。いま起こっていること…例えば、誰しもが“最期”だと信じている死でさえも、もしかすると、それはまだひとつの“過程”であるかも知れないのだ。この物語を観たすべての人の心に残るのは、あたたかくやわらかな希望だけであってほしい。ラストシーンで桃井かおり演じるケイコの視線の先にあるものが、たとえ何であったとしても。

 

 

HDM:今作はまず、桃井さんとイッセーさんのお2人が夫婦役としての共演というところに注目が集まるかと思うのですが。

桃井かおり:監督のマーリス・マルティンソーンスとは3度目なんですけど、いつもわからない台本とわからない現場なんです。だけど映画が出来上がると、「ああ、これは言葉で打ち合わせをしたところでわからないのが当たり前で、実際に演ってみるしかないな」って理解ができるんですけど、今回の作品は特にそうでしたね。私ばかりが「日本の俳優」として海外に紹介されていても仕方がないので、そろそろ他にも良い日本の俳優さんを紹介するべきだと思って。それで無理矢理イッセーさんを引きずり込んだんですけれども(笑)。

イッセー尾形:香織さんとはもう30歳の頃から共演をしているのだけど、「この2人さえいれば、世界のどこでだって世界は繰り広げられる」という確信があるんだよね。たまたま『沈黙(マーティン・スコセッシ監督)』の撮影で台湾にいる時に香織さんからこの映画についての連絡があったんだけど、なんだかね、僕にとって凄く良いタイミングだったというか、凄い縁だなあって感じました。僕は香織さんとは盟友であり、同志、戦友だと思っているから、映画の内容うんぬんよりまず「何であれ、大丈夫だろう」と思って。

 

HDM:神戸とラトビアの首都リガのふたつの国と街が舞台になっていますね。

桃井かおり:ラトビアのリガという街をフルに使った撮影だったんですけど、朝早くに行ったストーンブリッジでの撮影はわざわざ橋を閉鎖してね。私が今まで出てきたハリウッド映画よりも大きな規模で(笑)。旧市街を自由に使わせていただけたんですけど、本当にこの作品の為に市民や国中が動いているような撮影でした。逆に神戸の撮影では、コソコソっと、できるだけ邪魔にならないよう、絡まれないように撮影を済ませたんですけど(笑)。お陰で、素晴らしい撮影が出来たと思います。

 

HDM:完成した作品をご覧になられた時、如何でしたか?

桃井かおり:出来上がった作品をイッセーさんと観た時、非常に面白いと思えるものができたから、お互いに「面白かったね!」って。それが本当に良かった。

イッセー尾形:うん。本当に同じ感覚レベルで、この面白さを共有できたよね。

桃井かおり:そう。こういう時ってね、ちょっと気に入っていない映画になった時が1番辛いんですよ(笑)。だから、今回は本当に良かったって思って。

イッセー尾形:ハハハ!そういう意味では、僕たちの温度差はまるで無かったよね。

桃井かおり:本当に。アーティスティックで、それでいて品のある作品だし、笑えるしね。

 

HDM:桃井さんが演じられたケイコは、家族を失った喪失感の中で生きていました。キッカケのひとつに、阪神淡路大震災という出来事がありますね。

桃井かおり:私は阪神淡路大震災の際に被災した女性を演じているのですが、そこをきちんと伝えたいというのがありました。自然災害…福島や熊本での出来事も同じだと思うんですけど、被災という経験をしたその後って、生活そのものはどうにか立ち直ることができると思うんです。だけど、心はどうやって立ち直らせたらいいんだろうって、きっとみなさん思うことだと思うんです。失ってしまった愛しい人とのことを考えたり思いを馳せてみたり、一見するとそれはこだわりや執着にとらわれているように見えるのかも知れないけれど、私は「思い出と一緒に生きていってはいけないの?」と思うんです。本当に、「思い出はそれ以上進化しないのだろうか?」と。この映画は、オバケと一緒に思い出を作るお話でもあるので…。

イッセー尾形:(指を立てて)シー…。

桃井かおり:え?言っちゃいけないところだった?ごめんなさい(笑)。でもまあ、ストーリーを知っていても大丈夫です、この作品は(笑)。

 

 

HDM:(笑)。劇中でのお2人のやりとりは、即興のような自由さが見てとれました。

イッセー尾形:監督は本当に自由な人で、台本は一応あるんだけど「好きにやっていいよ」という具合で、非常に太っ腹な人でしたね(笑)。だから我々も、本当に好きにやらせてもらったの。しかも、それがほぼノーカットで使ってもらえていたから、監督の懐の深さと度胸に「凄いな」と思いましたね。そしてそのシーンが、この映画の柱になっているよね。

桃井かおり:うん、本当にね。

イッセー尾形:この映画ってね「こんな感じの映画です」っていう形容詞が付けられないよね。

桃井かおり:そうなの。

イッセー尾形:この映画だけのオリジナルな世界が作れましたね。根底的な部分には震災という存在もあるんだけれど、僕たち2人が演じているのはひとつのカップルの“日常”なんです。やっぱり、日常というものに勝るドラマチックなものってないんだなって思いますね。

 

HDM:台本をほとんど意識せずに演じた、この2二人だからこそ作りあげることができた空気感の中で、改めてお互いに対して感じたことはありますか?

桃井かおり:イッセーさんと2人芝居をするとね、台本のあるもなし関係なく、自然と戯曲が出来上がっていくんです。それでその出来上がった戯曲がね、けっこう文学的なものになるんですよね。そういう…何と言うか、ちょっと天才的なことが起こる…あ、これは自画自賛だけどね(笑)。だけど、そういう感覚をお持ちの俳優さんって、日本でも海外でも希少だと思うの。持っているセンスの高さをもって現場から何かを生み出す力、そういうものをご自分でしっかりと信じていらっしゃる。これってね、俳優でしか味わえない力ですよね。いくら監督が出せ出せって言っても、出ない時は出ない。これはもう、俳優が自分で作りあげていくものだから。そういう感覚を、イッセーさんと一緒にいるといつも味わうことができるんです。例えば、「ただ道を歩く」という場面で、一応台詞はあるにはあるんだけど、用意された言葉だけでは何だか足りないな、というシーンがあったの。だけど、そこで「何かを言っても言わなくてもいいんじゃない?」って。「言いたくなった時に言えばさ、いいんじゃない?」って。私は「え?言わなくてもいいの?」ってなっちゃったんだけど(笑)、それってそこに漂っている空気や肌で感じる寒さ、影なんかを受けて、何か自然と言いたくなったら言えば?ということなんですよね。「どうせ、監督には我々が何を喋っているんだかわかりっこないんだから」って(笑)。そういう感覚も含めて、イッセーさんは、海外の作品に出てもひけをとらない方だということは私が一番よくわかっているつもりなんです。

イッセー尾形:嬉しいね。今回は特に、それで成立する作品だったんだよね。意味じゃなくてイメ−ジだったり、感覚や五感だったり。そういうものがこの作品の1番大切な要素なんだろうなあって思ったんだよね。

桃井かおり:監督もね、言葉は理解できなくても空気感で察することができる人っていうか。「さっき、悲しい場面なのに、2人はすごく面白そうに話していたよね」って(笑)。

イッセー尾形:監督をはじめ、現場にいるスタッフみんなに僕たちの即興を投げかけて、相手も同じように、意味じゃなく感覚…それぞれのセンサーでそれを受け取って構築されていったものだからね。あとはね、リガという街が本当に幻想的だから、その空気の中に自然にのまれていたというか、自分で思い付いた「ここでこうしてやろう」なんてよこしまな発想が及ばなかったというのもあるよね(笑)。

桃井かおり:本当に、意識が成立しないのよね。

イッセー尾形:人生にはさ、いろいろな選択肢が訪れるけど、この作品でのかおりさんの素敵なところは、目の前に差し出された可能性のドアを全部ちょっとずつ開けていくんだよね。すべての可能性のドアをちょっと開いては覗いてみるその表情がね、本当に万華鏡のようにくるくると変わっていって。本当に素敵だなって思いましたね。

桃井かおり:結局ね、理解して噛み砕いてやるというより、監督とスタッフを信じて、そうすることで私たちのことも信じてもらって一緒に作品を作り上げるということ自体、誰とでもできることではないものね。イッセーさんは何をするかわからない。だけど私は、その何をやりだすかわからないイッセーさんといるのがとっても楽しいのよね(笑)。

イッセー尾形:あとね、いつもの僕たちの2人芝居のルールで“とにかく長引かせようぜ”っていうのがあって(笑)。簡単には終わらせないの。

桃井かおり:そうそう、あと“あんまり上手にやらないこと”もね(笑)。

 

HDM:桃井さん演じるケイコさんからは“生を続けていくこと”のひとつの在り方を見せてもらえたような気がしています。

桃井かおり:私がこの作品で演じた女性は、家族を失ってから現実的な時間を止めて、とにかく元気な状態に戻る為なら何でもやってみようと思って色々やってみるんだけど、どうしても喪失感からは抜けだせない。生活自体は、一見まるで元通りのように続いていくのに、自分の感情や感覚がわからなくなっているっていうか。それをどうにかしなくちゃいけないなって。そういうことをちゃんと感じながらやっていました。

 

 

HDM:立ち直る術を模索している。

桃井かおり:撮影場所になったラトビアという国は独立してまだ20数年しか経っていないんだけど、阪神淡路大震災が起こってから今日までの日数と近いんですよね。独立するまでラトビアは、いろんな国々に侵略されてきた小国だったのだけれど、独立を心に誓った時、バルト三国の国民たちが手を繋いで国境に立ちふさがったの。パン屋のおじさんから、そのあたりにいるおばあちゃんまで、みんなが。最初、戦車で何人かが轢き殺されていったのだけど、それでも手を繋いでそこから動かなかった。そうしたら…きっと戦車に乗って人を轢き殺していた人の方が辛くなってきたんでしょうね。彼らは無抵抗のまま、繋いだ「人間の鎖」だけで独立を勝ち取ったという歴史があるんです。非常に不条理な歴史を抱えているのに、何か得体の知れない強さをしっかりと持っていると感じました。日本は近年、自然と闘うことを余儀なくされることが多いのだけれど、そういう時にラトビアの人々が勝ち取ってきた強さを持ってすれば、もしかしたら生きのびていけるのではないかしらって、そんな気がして。神戸とラトビアというふたつの国を舞台にできたことは、生きて行くことに対して何か良いヒントになるような気が凄くしたんです。

 

HDM:「食べることは生きること」という台詞が印象的だったのですが、お2人にとって生を実感するのはどんな時でしょうか?

イッセー尾形:僕はやっぱり芸術家だから(笑)、作品を作っている時ですね。それは、どんな現場においても感じるものです。「何が生まれるのか」という考察が自分の生命力になっていると思うし、エネルギーを焚き付けられるものなんだと思います。

桃井かおり:本当に、自分でも知らなかった力が出たりするものね。腕力に似たパワーを持つ知力というか。頭で考えるより先に身体がそれをやっている、という状態ってすごく嬉しいのよね。

イッセー尾形:そうそう。食べることで言えば、リガの野菜がすごく美味しかったよね。リガでの撮影の期間はホテルで美味しい野菜を食べてから現場に行くという、非常に健康的な毎日を送っていましたよ(笑)。

桃井かおり:そうそう!リガって決して裕福とは言えない街なんだけど、とにかくジャガイモが豊作なんだって。「沢山のモノは無いけれど、ジャガイモだけは沢山あるよ。だから自分たちはとっても恵まれている」って、そんなふうにゆったりとした国だよね。

 

HDM:お2人から見て、この作品にはどういったメッセージが込められていると思いますか?

イッセー尾形:僕が映画を見た直後に感じたことなんだけど、外国に行くと自分は現地の人からしたら「異邦人」じゃないですか。この映画でのかおりさんは、喪失感から時を止めて生きていっているんだけど、自分の中にずっと、本来の自分以外の「異邦人」を抱えているわけなんです。ある日、死に別れた旦那と出会うことでその異邦人が失っていた“日常”を再び生き始めるわけなんですけど、そのことに自分自身が気がついてから、彼女は止めていた時をもう1度生き直せるんですよね。この映画では「彼女の場合はそういうふうにして人生を立ち直らせることに成功しました」というひとつの例を見せているんだと思うんですよね。震災でも、何か日常で受けた傷に対しても、ひとりひとりに優しく手を差し伸べることができる作品になっていると思います。

桃井かおり:私ね、ヘルシンキからリガに向かう飛行機の中で、女性おひとりの方と知り合ったんですけど、その方は旦那様を亡くされていらっしゃったんですけど、旦那様と「いつかバルト三国を巡ろうね」と話していた約束を果たす為に、おひとりでリガに向かっていらっしゃって。「一緒に思い出を作りにいくんだ」と言っていたんだけど、それがね、凄くいいなと思って。失うだけじゃなく、そこから何かやれることがあるんだという希望みたいなものを感じてね。そこからまた思い出が育つような、止まったと思っていた思い出にだって未来があるんだっていうことを感じて。この映画は、震災が根底にはあるけれど、そのこと自体を利用していない映画だと思うんです。ただ傷付いたり失ってしまった人間がいて、そこからちゃんと、何かを取り戻していくっていうね。

 

HDM:私は以前、父が亡くなってから数日後に父に会ったことがあるんですけど、その時の父は、本当に劇中のイッセーさんと同じようにひょうひょうとしていて。私が「死んだはずじゃなかった?」と聞いたら、父はコタツでゴロゴロしながら「うん、まあ。それはそうなんやけど」と答えていて。今だにそれが夢現(ゆめうつつ)で見た幻想なのか何なのかわからないんですが、この作品を見て、その時の感覚がフラッシュバックしました。

桃井かおり:それね、わかるよ、すごく。私もね、父が死んでから自分の人生が大きく変わったの。人がひとりいなくなっただけで、家中の温度って下がるんだよね。心臓の音が聴こえなくなっただけで、自分の心臓も何だか調子が悪く感じたりして。それじゃまずいと思って、自分も持ち直すためにアメリカに渡って向こうの映画に出たりしてたの。

 

 

HDM:渡米の時、そういった状況だったんですね。

桃井かおり:そうなの。それでね、私も死んだ父と一緒に暮らしていたんだよ。バカみたいだって思われるかも知れないんだけどね。

 

HDM:それは、どういう状況で?

桃井かおり:姿を見たこともあったし、電気が切れたりっていう現象もあったね。それ以前に、父が自分の側にいるというのが感覚的にわかっていたの。半年間くらいの出来事だったけれど、確かにそういうことがあったから、私は父が死んでからの方が父と過ごした時間が長くあったという印象なのよね。だから、父が私に望んでいることもよく理解できたし。例えば「英語で台詞を言える俳優になって欲しい」とか。今の旦那さんもね、父が気に入っていた人だったの。

イッセー尾形:そうだったの?

桃井かおり:そう。「お前は善良な男と付き合ったことがないだろう」って(笑)。「一度善良な男というものと付き合ってみたらどうなんだ?」って聞かれたことがあって、それでアメリカに行ったら今の旦那に会ったんだよね。

 

HDM:…凄いですね。

桃井かおり:映画ってね、やっぱり私たちがそうやって現実で経験したり感じたことを込めているんだよね。意図せずそういう念力を使ってしまうっていうか。

 

HDM:この映画にはひとつに「死と向き合う」というテーマもありますが、お2人は死に対してどうお考えですか?

イッセー尾形:やっぱり最近考えるよね、「死」について。特に60歳過ぎてからは。でも死ぬ前にやっておきたいことが頭の中にイメ−ジとしてあるから、そこに向かう欲求とかエネルギーが「死」というものを凌駕してしまうということがよくあるね。今の自分の頭の中で持っている未来のシュミレーションを全うできるのか、果たして途中で終わってしまうのかはわからないんだけど、それをイメ−ジすることができるだけで幸せだなって思うよ。

桃井かおり:これって、誤解されてしまう言い方かも知れないけれど、死というものに直面すると、ただただそれはリアルな現実であるから、そういう抗えないものに直面することで「生」に対して活気づくという感覚はありますよね。「死」に直面することで「生きている」という実感を持つと同時に、まだ続いているその時間に対して積極的になれるっていうか。生きている間にやれることをやってしまおうという気持ちになれるのよね。

イッセー尾形:だって死んでしまったらさ、死を受け止めるのは生き残っている周囲の人たちだもんね。だから本人はもちろんだけど、それ以上に生きている人にいろんな影響を及ぼすものなんだと思う。死というものは。いろんな日々を思い出してみたり、寂しさと闘ってみたりね。

桃井かおり:うん。周りの人間にとってのものなんだよね。だから、そっち側の感覚に引き摺られてしまうより、死んだ人を生きている自分たちに付き合わせるくらいの気持ちでいないとね。

イッセー尾形:僕のおふくろはね、ホスピスのベッドの上で意識を失う痛み止めを打ってそのまま…という最期だったんだけれど、きっとそれは本人も予想できなかった最期の迎え方だったんじゃないかと思ったんだよね。死ぬ時って…それが自殺でない限りは、誰にも選べないものじゃない。そういうことも含めたすべてが「生きて行く」ことなんだなって。

 

HDM:さきほどおっしゃられたように、イッセーさんと桃井さんのやりとりがこの映画の柱になっていますが、お2人の関わりを見て、「死」というものを、ただシリアスにされなかったことに救われました。

イッセー尾形:こちらこそ、そんなふうに感じてもらえたなんて凄く嬉しいな。

桃井かおり:すごく嬉しいね。映画ってね、その人の人生で見るものだから、全部がちゃんと、それぞれの映画になっていくんだよね。

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死の“向こう側”にあるもの 桃井かおり・イッセー尾形『ふたりの旅路』

不慮の事故により娘を亡くし、阪神・淡路大震災ですべてを失くしたケイコ(桃井かおり)は、自分の殻に閉じこもったまま1人淋しく神戸で暮らしていた。夫とともにレストランを開く夢も、完成間近だったそのレストランも、夫さえも失った彼女は、誰も守れなかったという罪悪感に今も苦しんでいるのだ。震災から20年の月日が流れ、そんなケイコに大きな転機が訪れる。ラトビアの首都リガで開催される着物ショーに参加することになったケイコは、亡き娘の結婚式用にあつらえた黒留袖を携えて神戸の地をあとにする。


“バルト海の真珠”と讃えられる美しい街リガで行われた着物ショーの会場には、“日本の伝統美”にあこがれる市民が詰めかけていた。舞台上で黒留袖姿を披露することになっていたケイコは、本番中の舞台裏で不思議な体験をする。震災で行方不明になっていた夫(イッセー尾形)が、彼女の前に突然現れたのだ。現実とは思えない出来事に戸惑うケイコは、ホテルやレストランにも出没する“夫”に邪険な態度をとり続ける。


翌日、料理好きなケイコは新鮮な食材が所狭しと並ぶ市場に足を運ぶ。そこでTVプロデューサーの目に留まったケイコは、料理番組の人気コーナー「クッキング・バトル」に出演することに。料理対決の前に収録されたインタビューで、ケイコは懐かしくもせつない食にまつわる思い出の数々を語り始めるのだった。


これを機に過去と向き合う力を取り戻したケイコは、その夜久しぶりに“夫”と穏やかな時を過ごす。自らの旅を通して、改めて自分が人生で大事にしてきたものを再確認することになる...。

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