かなた狼|『ニワトリ★スター』原作・監督の“異端”というスピリット
まず最初に具体的な彼のプロフィール、つまりこれまで成し得てきた…例えばみんなが「ああ!」と言うような経歴をあげつらっていくべきなのは承知しているんだけど、何しろその内容がジャンルレス過ぎることと、ただのデータの羅列になってしまいそうだからここでは割愛する。知りたい人はぜひ調べてみてほしいけど、一言で言うとそれは偉業というより“異業”。クリエイターなのかアーティストなのか、果たしてビジネスマンなのか。文字を書き、マイクを持ち、カメラを持ち、酒瓶を持ち…(たぶんほかにもいろいろ)…とにかく、彼という存在のしかたを何かひとつのジャンルにまとめて言い切るための核が掴めない。“多才”という簡素な二文字だけではどうも物足りないような気にさせる、かなた狼とはそういう男である。
映画になるための小説『ニワトリ★スター』
彼の最新のクリエイションが、公開中である映画『ニワトリ★スター』だ。これまでにも劇場映画では『ハブと拳骨』『殴者』などの原案やクリエイティブ・ディレクターを務めてきたが、自身では初となる原作から監督までを務めた作品だ。この映画のために生まれた小説からすべては始まった。
「映画に関してはこれまでに原作と原案のふたつを手掛けてきたけど、自分の映画を作ろうと考えた時に、まずはきちんと長編小説を書いてみるべきだと思って。だから『ニワトリ★スター』は、まず映画にすることが前提で書き上げた物語。文章…活字の世界で、どれだけ自分の力が示せるのかということも知りたかったというのもあって。小説を書くにあたって『書き始めるのは誰でもできるけど、書き終えることが難しい』という話を聞いていたんだけど、いざ書き始めていると本当にその通りだったよね。体力とかそういう部分じゃなくて、脳の動きが往生することがよくあった」
筆を置いたその足で出版社へ作品を持ち込んだ。特異すぎるその物語は担当者の興味と好奇心を捉え、本人すらも驚くべきスピードを持って、新しい展開を始める。
「最初に原稿を持ち込んだ出版社の社長に読んでもらって『よし、これをやろう!』と言ってもらえたんだけど、出来上がってすぐにアプローチした途端に決まったもんだから、ちょっとびっくりして(笑)。でもそこからが本当のスタートで『君はまだ小説家と言えるようなレベルではないから、ここからブラッシュアップしましょう』ということになって、作品のリライトで…2年くらいかかったかな。その作業っていうのがかなり精神的にハードで、こっちが必死で書いた内容に対して担当の編集者からはたった一言『まだ、迷っておられますね』と言われるだけとかね(笑)。キツかったよ。この小説が出来上がった時点で8キロ減量できてたね(笑)。自分で書いている凄惨な描写に憔悴(しょうすい)したのもあるけど、小説家として始動したことで初めて叩きつけられた自分の能力についてとか、そういうこと全部。自分は小説家志望でもなければ、文学を専攻して学んでいたわけでもない。だけどあとになって、これまでたくさんの作家を輩出してきた出版の世界にいる人たちが『最初の3行を読んですぐに“なんだこれは?!”と思った』と言ってくれたのを聞いたとき、報われたような気はしたよね」
彼の人格と経歴同様に、『ニワトリ★スター』にもその特異性は際立っている。人間同士の愛憎劇やコメディ、バイオレンスとセックスが入り乱れ、実写の世界とアニメーション、CGの映像が関わり合うその世界は錯乱を覚えさせる。もしこの映画がひとりの人間だとしたら、相当に情緒不安定でエキセントリックなヤツだと思う。そして強い二面性を持っている。くだらなくも平和な日々や関わり合いなど、一変で暗闇に塗りかえてしまうような“暴力”をもって。
暴力とはそもそも惨いもの
今作で際立っているひとつに「暴力描写」があるが、…あとになってこんな質問をした自分を自分で疑うことになった。「なぜあんなに惨い暴力を描くのか」。こんな質問、馬鹿としか言いようがない。それに対する彼の答えで、こんな当然のことに今さら気づくなんて。
「劇中にもある暴力のシーンは、小説ではもっと濃くて。それは出版社の人にも『とことんやりましょう』と言われてた。小手先のものじゃなく、世の中の内側の世界をとことん描ききったほうがいい、自分の中にある全部を吐き出したほうがいいと言われて腹がすわったというのもあるけど、正直、自分でも書きながら少しえずいたりしてて。頭の中でその光景がリアルに出てくるから。俺は暴力が凄く嫌い。だけど正直に言うと、過去には暴力の中に生きているような時間もあった。それだけに、暴力というものを描くときに直視できるような書き方はしたくなかった。ちゃんと恐怖と不快感を与えるものを。俺が恐いと思うのは、スクリーンの中よりも現実のほうが遥かに恐ろしいということをわかっていない人間が多いということ。こんなこと、おおっぴらに口に出して肯定しては絶対にいけないことなんだけど、現実の世界はいつも最終的には暴力が支配してる」
いつの時代も、声高に叫ばれている愛や平和、正義の養分は暴力や脅威だ。その関係性があって初めて、宗教や道徳はその存在を明らかにできる。暴力は嫌だ。痛くて辛くて苦しい、生きたまま火に焼かれるような、あんな地獄を味わうのは絶対に嫌だ。だけどそれと同じくらい、愛や友情や絆だけを強要されることにも嫌悪してしまう。世界は常に多面的で、そこには優しく暖かいものも惨く悲しいものも同じように存在しているというのに、自分たちの目や耳に触れるのは玩具のようにチャチな一方面だけの思想。愛を叫ぶサークルの真ん中で、ただ突っ立ているのは自分だけのような気分だ。
「近年は、暴力描写を生々しく描く映画が増えてきたけど、逆に現実世界のほうが麻痺してるよね。現実のほうが…もっとグロテスク。アパートの一室で何人もバラバラにしてたとかさ。事実は小説よりも奇なりって言うけど、みんなニュースなんかで毎日毎日むごい事実を目にしているはずなのに、そこには意識が向かないで、創られた世界で起こってることに一喜一憂したり、恐怖を感じたりしてる。麻痺してるよ。ミサイルを撃つ、戦争をしかける。人間は長い歴史を経てきても、根底の部分はそう簡単には変わらないってことを実感させられることばかり。そういう現実から逃れるために、音楽や映画、それ以外の表現世界が“お花畑”である必要も納得できる」
人間と社会に対する苛烈な愛情と嫌悪
世の中という場所は、愛も平和も暴力も破壊も、食品や服のようにすべてが同じように量産されているような錯覚を起こさせる。そして少なくとも自分の人生に関わってこない以上、何が起ころうとそれは物語でも現実でも大差がない、という点では同じなのだ。
「世界中で凄惨で辛いことが毎日起こってるけど、それはネットやテレビのニュースでたった数行、数秒で伝え切れるようなものじゃない。俺が住んでいるマンションの窓から、数年前に起こった幼児放置死事件の現場が見えるんだけど、自宅の窓からそこを見るたびに『お前らのために一矢報いてやる』という気持ちになる。俺はその子供たちの親でも知り合いでもないけど、そんな死に方をすることになった悔しさも辛さも忘れてない人間がここにいるって」
世の中で起こるすべてのことに関心を寄せたり、まるで自分のことのように責任を感じることは不可能だ。そうできないことに、自分自身に不快感を感じることがある。その鬱屈した気持ちの捌け口として…あるいはもしかして、同じ精神状態を抱えている人たちを少しでも楽にするために、表現世界と表現者があるのかも知れない。
「ときどき、もの凄く人間をやっていることが嫌になることがある。唾を吐きかけてやりたくなるような…人間の社会に属していることに吐き気を感じることも。凄く矛盾しているんだけど、家族や仲間がいて、天気がいいというだけで幸せな気持ちになれる一方で、寝る前に『ぜんぶ滅びろ』と思うこともある。その両側を常に行ったり来たりしてる。アーティストや表現世界にいる人でも、自分の中にある多面性を封印して、“見せたい”もしくは“見せるべき”一面だけを表現として見せている人もいると思う。だけど、俺は自分が持ちうる多面性をすべて見せるべきだと思っている。それがリアルなことだと思うんだけど、多くは当たり障りのない一方面だけにコンポーズされているよね。アンダーグラウンドですら」
ヒップホップという概念
ジャンルレスな彼の肩書きのひとつ…それもかなりコアな存在としてヒップホップとそのカルチャーがある。2008年にはタイを拠点にアジア圏で大人気のヒップホップクルーTHAITANIUM(タイタニウム)と組み、無国籍ヒップホップ集団TOM YUM SAMURAIを結成した。人種だけでなく、思想、文化、バックボーンをすべて融合した、まったく新しいミクスチャーカルチャーを生み出した。彼が思う、ヒップホップマインドとはどういうものなのか。
「俺はヒップホップのカルチャーで育った人間だけど、現時点では…自分が好きだと感じた世界と現状はかけ離れている気がしていて。あくまでも自分の観点での話だけどね。俺にとってのヒップホップとは、精神の部分で『概念を破壊し続けていくこと』だと思ってる。今、そのシーンを象徴するものとして定着している手法は、すでに“既成概念”に成り下がってる。そしてそれを自分がやるということに対しても、自分の中にスピリットは感じない」
ヒップホップカルチャーのひとつに「サンプリング」という手法がある。既存のものを利用し、駆使し、新しい何かを生み出すというものだが、それは常識や通例から逸脱できるだけのアイデアやセンス、技術など、あらゆる要素があってこそ成立する、SCRAP & BUILD…いや、ここは敢えてCREATION & DESTRUCTIONだと言っておきたい。『ニワトリ★スター』の物語が繰り広げられる舞台となった、ゲットーエリアにたたずむボロボロの『ギザギザアパート』は実在するスポットだが、正式名称である『道草アパートメント』として知られるこの場所こそが、彼のクリエイションを体現しているくそデカい作品だ。
「あのアパートは、もともと壊される予定だったものを…要は“サンプリング”したんだけど、あの場所でクリエイターやアーティスト、飲食でも何でも、ぞれぞれの表現や営みで暮らして共存していける基盤のような場所にしたかった。TOM YUM SAMURAIもそうで、あれはただ単純な音楽活動というよりもっとシンプルに、タイの仲間と20数年前に偶然知り合って、同じ精神性を感じた彼らとヒップホップカルチャーを体現していくこと。彼ら(TAITANIUM)は自国でスターダムにまで上り詰めたわけだけど、リーダーはアフリカ・バンバータという、ヒップホップシーンのレジェンドが始めた『ユニバーサル・ズール・ネイション』という組織の一員でもある。この組織はただ音楽をやるだけじゃなく、街の清掃や犯罪抑止といった社会活動に力を入れてた。ちゃんと社会に関わっていくことで、ヒップホップはギャングスタカルチャーという側面だけではないという力を示した人だね」
盟友の死と再生
今作を最後まで見終わったとき、映画のエンドロールにあらわれる、あるひとりの人物の名前に気づくはずだ。「TERRY THE AKI-06」。関西を拠点に活動していたレゲエDeeJayだ。彼の盟友であり弟のような存在。そして、その彼はもうこの世にはいない。『ニワトリ★スター』で草太役を演じた俳優の井浦新と彼を引き合わせたのもこの人だった。彼の死は、彼を知るすべての人と場所に大きな衝撃を与えたが、彼は衝撃以上の、言いようのない喪失感を受けた。その死と向き合えずに現実を逃避し、長いあいだ苦しんだ。
「俺にとっては弟みたいなヤツだったから。この物語を映画にするにあたって『これはTERRYのための映画なんだ』と思う人もいると思う。でも、あいつを映画にするのであれば…いや…そもそもそれをする必要があるのか、ということを考えるよ。TERRYに対して思っていることはいろいろあるよ。あいつとは師弟関係というより、刺激し合う仲間のような存在だったと思う。この映画はあいつのための映画ではないけど、彼に“示す”ための映画ではあるのかも知れない。俺はいつもあいつに『異端であれ』ということを示してきたから、今までやってきたことじゃなく、今までにない新しい挑戦をあいつに見せたかった。それは自分にとっての意地でもあるのかも知れないけど」
「あいつのための映画じゃない」という言葉は、半分は本当で、半分は嘘かも知れないと思った。何故なら、劇中の草太と楽人の関わり合いや愛情は、彼とその盟友との関係性を重ね合わさずにはいられないほど、スクリーンの枠がぼやけて消えてしまうような生身の温かさが絶対に存在していて、ふたりが交わす言葉やすごした空間の美しさに、彼自身の願望を強く感じたからだった。
「自分の気持ちとか…こうであってほしかった、みたいな感情を主人公のふたりに投影している部分はあると思う。ふたりの関係性とかやりとりにも。楽人が最後に言ったあのセリフは、俺があいつから聞きたかった言葉かも知れないし、自分の願望だと思う。そうしたことで、ひとつ自分の中でようやくケジメはつけられたような気はしてる。映画の“エンドロールのあと”を見てもらったらわかると思うけど、あれは終わりからの始まりだよね」
死と向き合えずにいた過去の自分のためにも、この先の自分のためにも、この物語は必要だった。
「この映画を作らないと自分は先に進めないと思った。あいつが死んだとき、俺は通夜も葬式も行かなかったから。たぶん…行けなかった。行けば、あいつの死に顔を見ることになる。見たら現実として受け止めないといけなくなる。それがそのときの自分にはできなかった。だけどあとから考えると、その選択は間違っていたと思った。四十九日のときにやっと手を合わせにいこうという気持ちになって、会場をたずねたんだけど、そうしたら、あいつのお母さんに『あなたがお葬式にもお通夜にも来なかった理由はわかっているよ』と言われて。だけど今日の出席名簿に俺の名前があったことで、喜んでくれたんだよね。それを聞いたとき、自分だけの感情にしか目を向けられなかったあのときの自分を恥ずかしく思ったし、あいつが死んだという情報は理解しても、亡くなって冷たくなってしまった顔や身体をさわったり…視覚や感触で確かめて、ちゃんと現実を受け入れないことには、時間が止まったままになってしまうということにあとになって気づいた。死んでしまったんだという実感がないまま、あいつがいない世界で生きていくという地獄を味わったから。現実と感覚がちぐはぐになることがこんなにも苦痛であるということを思い知らされたから」
“イメ−ジの奴隷”にゲロを吐く
客商売はイメ−ジ商売だ。自分と自分から生産されるものがいかに安全で、安心で、善良であるかが最も重要なアプローチである。エンターテイメントは当然、かなり大規模な客商売だ。絶対的な影響力よりも、むしろ“人畜無害”であることが求められるのはそういうことだ。だがクリエイション、アートはどうだろうか。良い人間であろうとするが故に、多面的な自分を殺すような人間やそこから生まれるものに、いったいどれだけの魅力があると言うのだろう。
「俺の理想は、自分や外からのイメ−ジの奴隷になることなく創造できること。アートというものは、俺の個人的な価値観で言うと“ゲロ”だと思う。その最初は形を成していないゲロから生まれてくるもの。材料は自分から吐き出すものであって、それは何がしかの不満や怒り、ストレスのネタとなるものがあるからこそ発生するものだと思う。凄く平和な作品として表現されているものは特に、その根っこには対極する世界がある。そのバックボーンをちゃんと感じるものであることが大事だと思う。“アーティスト”と“エンターテイナー”は似て非なる存在で、それぞれモノを作る過程で近しい感覚はあるんだと思うけど、最終目的が違う。エンターテインは『お客さんが求めているものをどう生み出すか』ということ。アートは『自分が生み出したものを世間にどう認めさせるか』が何より大事。この目的意識の差はもの凄く大きい」
ポピュラリティの意味
音楽にしろ映像や小説にしろ、彼から生み出される作品は、いわゆる“ポップ”な路線とは相反するものだ。言いかえると“大衆受け”をシカトし、自分のクリエイティヴィティとリンクする特別な相手だけを探しているようなストイックさがある。それをもって、世間という広大な的に向けて発信し続ける彼の中にある“ポピュラリティ”とはどういうものか。
「誤解を恐れずに言うと、俺自身はすごく“ポップ”なものが好き。ここで言うポップは、『理解できる世界である』ということ。前衛的なものの魅力も確かにあるんだけど、俺は他人の理解をまったく無視した、あまりに個人主義的なものは好きじゃない。『芸術はわかりにくいのがいい』とよく言われるみたいだけど、自分以外の人間に対して理解や解釈を与えないものに存在価値が果たしてあるのか。それならわざわざ世間に出すなよって(笑)。自分たちが見せるべき世界観をどう見せていくか、それを認めさせるということに特化するのは、やっぱり生半可なことじゃない。それがおもしろい」
インタビューの後日、東京を皮切りにいよいよ『ニワトリ★スター』が公開された。それと同時に、全国から続々と上映オファーが舞い込む事態となっているようだ。彼からのメールには「大きな何かが動きだした気がする」と書かれてあった。その予想は、きっと当たっている。このメチャクチャな映画が、波風ひとつ立たない退屈な日本のカルチャーシーンをメチャクチャにしてくれることを願って、また劇場へ向かおうと思う。
「俺は常に何かを生み出していたい。俺は真剣に“B-BOY”をやっているつもり。Bの意味は「BREAK(破壊)」「BUILD(構築)」。破壊と再生を繰り返して、自分だけのものを生み出していくこと。それが自分と、ストリートカルチャーに関わるすべての人たちへのリスペクトだと思ってる」
MORE INFORMATION

『ニワトリ★スター』
監督・音楽:かなた狼
脚本:いながききよたか / かなた狼
原作:たなか雄一狼「ニワトリ★スター」(宝島社文庫)
出演:井浦新 / 成田凌 / 紗羅マリー / 阿部亮平 / LiLiCo / 鳥肌実 / 津田寛治 / 奥田瑛二
©映画『ニワトリ★スター』製作委員会
3月17日(土)ヒューマントラストシネマ渋谷
3月24日(土)シネ・リーブル梅田 / シネマート心斎橋
ほか全国順次ロードショー