名古屋の伝説的ハードコアフェス『MURDER THEY FALL』が9月20日に“ZERO”として復活!
1998年7月31日 DAIAMOND HALLで第1回が開催され、2010年に13回という節目で幕を閉じた、名古屋アンダーグラウンド、ストリートシーンで誕生したハードコアとヒップホップの伝説的祭典「MURDER THEY FALL」が、今年2019年9月20日に“ZERO”として復活(今回はハードコアのみ)!今回はその創始者でありSQUARE代表のONI氏が来阪中のところをキャッチし話を聞いた。このインタビューではまだ掲載できないが、今月にも出演バンドが発表されるみたいなので、ざっくりではあるがMURDER THEY FALLの歴史を感じ取ってもらいたい。
HDM:個人的に聞いてみたいことを今回も聞いていこうと思うんですけど、言える範囲で話してもらえたら(笑)。ONIくんの幼少期はどんな子供でした?
ONI:幼少期はそんな悪態はついてなかったと思うけど、それでも小学校は3回変わりましたね(笑)。
HDM:出身はたしか長崎でしたよね?
ONI:そう。なんだかんだ転々として、中学のときに名古屋にたどり着いた感じだね。
HDM:小学生のころはどんな音楽を聴いてました?
ONI:4年生くらいのときにBLUE HEARTSを知って、そこからパンクに入っていった。
HDM:やっぱ世代ですね。ハードコアとのそもそもの出会いは?
ONI:そこからどんどん掘るようになって、高校生のころにはよりコアなパンクやジャパコアを聴いてたね。CONTINENTAL KIDS、CITY INDIAN、ZOUO、OUTO、S.O.B…とか、けっこう関西のバンドが好きだったね。
HDM:そのころ名古屋ってどんなバンドいました?
ONI:S.D.S、TORTURE…名古屋にもたくさんパンクバンドがいたんだけど、その中で同い歳でMANIAC HIGH SENCEってのがいたの。彼らはUSハードコアスタイルなんだけど、ジャップやパンクバンドと当時よく一緒にやっていて。それ見たときに「カッコいいな」と思って、それで(US)ハードコアに対する見る目が変わったのかな。もちろんそれまでにそういう音楽があるっていうのは知ってはいたけど、(US)ハードコアにハマるキッカケはそこ。それからよく東京にも遠征してライブを見に行くようになって。
HDM:東京っていうのは?
ONI:SUNDAY SCHOOL OF HARDKNOX(以後SSOHK)によく遊びに行ってた。
HDM:王子(CLUB 3D)であった伝説のイベントですね。OUT TA BOMBの大江くんとDJ TOMODAさんが主催していた。
ONI:そうそう。友作(SWITCH STYLE / 現ZOZO社長)もそうだしなんであのへんと仲が良いかと言うとSSOHKに行ってたから。なんで行ってたかっていうと向こう(東京)の音楽とシーンのほうが早いと思ってたから。1人でも行ったし、KAZUKI(JUKE BOXXX RECORD)ともよく一緒に行ったなあ。そこでまだNUMBを始める前のSENTAやNATSUOとも出会って。
HDM:SENTAくん、NATSUOくんがCHOICE IS YOURS(SWITCH STYLE主催で六本木R-HALLなどで開催)のイベントの手伝いをまだやってたころですね。
ONI:そうそう。みんな同い歳だったしね、すぐ仲良くなったよ。
HDM:あれに行ってた関西人や名古屋人はなかなかいないですよね。あそこから始まったハードコアバンドもたくさんいますからね。
ONI:あそこが日本のUSハードコアの原点のひとつだったと思うし、あれを県外に持っていったのも俺だけだと思う。
HDM:名古屋で?
ONI:うん、1995年にSSOHKをDIAMOND HALLでやったの。それがのちのMURDER THEY FALL(1998~2010 / 以後MTF)の走りかもしんない。そのとき出てもらったのがSWITCH STYLE、BLIND JUSTICE(envy)、ヌンチャク、TAKE THE LEAD(WITS END)、クラムチャウダー(FRAGMENT)、MANIAC HISENSE。でもそのときのめんどくさい思い出があって、そのころってまだUSハードコアとジャパニーズハードコアの区別がはっきりとあったから、「ハードコア」って名前出してイベントを打ったら名古屋シティハードコアがやからしに来たの。
HDM:当時はどこも一緒ですね(笑)。
ONI:「ハードコアって使っとるのはどういうことだ」と。そんで名古屋シティハードコアの人たちがライブ中にビン投げてきて、それが照明に当たって、割れたガラスが客席に落ちてライブが中断して。