吉田修一|常人と犯罪者 曖昧な境界線

interview by CHINATSU MIYOSHI photo by YUJI HONGO

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映画化され、話題と同時に物議を醸した『悪人』『さよなら渓谷』『怒り』など、多くの著作を世に投じる作家・吉田修一氏の新作が発表された。まず、『犯罪小説集』という、あまりにも簡潔に置かれた表題に目が止まる。人間関係、金、虚栄心、不安、防衛心、愛情…あらゆる理由と原因が交差し入り乱れ、まるでそれが進むべき道であったかのように起こった幾つかの“犯罪”と、そして“犯罪者”がここには在る。この小説は恐い。それは物語に出てくる犯罪や犯罪者が恐いのではなく、それらが、恐ろしいほどに自分自身の生活環境や人間関係、そしてそこから日々受けている影響とあまりに酷似していることが恐いのだ。登場人物の顔や名前をすり替えただけの、自分自身の内に隠る葛藤や怒り、哀しみの詳細を突きつけられているような気がして、不安になる。日々、メディアで取り上げられる事件はまるでエンターテイメントのように思えることがある。凄惨な出来事は新しいアイデアや普遍的なストーリーをもって量産され、画面の向こうにいるのはサイコパスや狂人という“選ばれた”エンターテイナーのように、見えていた。その理由はひとつ。「自分の日常とは関係の無い世界で起こったこと」「自分とは違う人間がやったこと」という、絶対的な自信があったからだ。本作を読んで、その自信が大きく揺らいだ。次に画面の向こうで大衆の好奇や同情、怒りの目に晒されるのは、自分であるかも知れないのだ。倫理や理性は、いったいどこまでコントロール出来るのかなんて、誰にもわからないのだから。

 

 

HDM:『犯罪小説集』という、あまりにもストレートなタイトルから、先入観で犯罪者=悪人、というような“勧善懲悪”を想像してしまっていたんですけど、“善”…というより“悪”の存在すら不確かだったことが衝撃でした。

吉田修一:あ、そうか。今それをお聞きして、僕自身もハっとしたんですけど、僕にはむしろその“勧善懲悪”のイメ−ジが全く無いんだと気付きましたね。本当に、まったく無いんだなって。初めて気付きました(笑)。

 

HDM:そうなんですね?

吉田修一:もちろん、犯罪を犯すこと自体は“悪”なんですよ。でも、どっちが善くてどっちが悪いっていう単純な考察が無いというか、『犯罪』という言葉が持つイメ−ジとして、そういう考察が無いんだなって。そう言えば、何でだろう(笑)?

 

HDM:(笑)。『犯罪』との関わり合いは、その内容が大なり小なり、殆ど多くの人間にとってはメディアや他人から聞きかじった話という程度での関わり合いだと思うんです。当然、その詳細やバックボーンについて知る機会は無くて。この作品には、その多くの人が知る由も無い背景や心情が描かれてありますよね。勿論、これはフィクションではあるんですけど、それでも「犯罪を犯すことに行き着いた」状況や関係、そこにある複雑な精神性や感情を追っていくことで、犯罪者は特別な悪人でもサイコパスでもなく、自分たちと同一線上にあるものだということを突きつけられました。

吉田修一:そう言って頂けると嬉しい(笑)。本当にその通りで、僕は『犯罪者』を描きたくて書いた訳ではないんです。だから、そう言って頂けるのは本当に嬉しい。

 

HDM:特に『万屋善次郎』について個人的にゾクッとしたことがあって。この物語と似た事件について、以前ニュースでの報道で「村おこし』」というキーワードが出ていたんです。その言葉を聞いて、この事件を起こした背景をぼんやりと想像すると…言いにくくはあるんですけど、果たして“犯人”となった人だけで発展していった結果だったのかということを思っていました。この物語で、その時の想像の裏付け、というとおかしいですけど、その真相を見たような気持ちになったんですよね。

吉田修一:この物語に関しての僕の立ち位置は、完全に“犬”でした(笑)。(主人公の)善次郎が飼っている犬と、近所のおばあちゃんが飼っている犬として、成り行きを側で見ていて。犬って喋れないじゃないですか。本当は「待って!この人は決して悪い人じゃないんだよ!」ってみんなに教えてあげたいんだけど、それができない。そのもどかしさをずっと感じながら書いてましたね(笑)。善次郎自身も自分についてうまく説明することができない性分で、理想的なコミュニケーションを取るのが苦手な人間なだけで、彼の周りにいる村の人間も誰も悪い人じゃないんですよね。だけど、本来なら掛け合う言葉があるはずなのに、その言葉さえも見つけられない人たちだから、どんどん良くない方向に向かっていってしまうという。

 

HDM:それぞれの自己防衛の方法が、すべて良くない方向に行ってしまう。今作の、全編を通して感じたことですが、吉田先生自体はどちらかと言うと「犯罪を起こす結果になってしまった人」に対しての情愛というか、同情心が強くあるのかなと。

吉田修一:ノンフィクションライターの清水潔さんと、以前に対談でご一緒させて頂いたことがあるんです。ノンフィクションライターの方が事件の記事を書く時はあらゆることを隅々まで調べるから、完全に“追う”側の立場でいるそうなんです。それで言うと僕は完全に“追われる側”として書いているなと。犯人側として書くか、犯人を追う側として書くか、事件という題材を扱うにしてもアプローチの仕方って全然違うんですよね。

 

HDM:ひとつの物語を作り上げる担い手は先生お一人ですし、断罪する側と断罪される側という相反する両側を行き来する感覚というのはどういうのでしょうか?

吉田修一:小説なので、もちろん色んな視点を持って書くので、必要な時にどちらも行き来はできるですけど、やっぱり基本的には断罪されていく側の人間に気持ちは付いているんでしょうね。

 

HDM:それはこの作品の読み手も、きっと同じ感覚に陥るんじゃないでしょうか。だから何というか、ずっともう、ひたすら辛かったですし、悔しいですし、それでも止められない…という。

吉田修一:さっき仰っていたように、現実に起こる事件…いわゆる“ノンフィクション”というものに対する大多数の人間の関わり合いは、テレビのワイドショーを始めとするメディアを介しての頻度と距離感になりますよね。そうすると、時間が経ていけばいくほど、どこか他人事のように忘れたり、薄れたりしてしまいますよね。でも小説で読んだ物語や事件って、あたかも自分自身の記憶として残っていることってありませんか?

 

HDM:…もの凄くあるんです。今作は特に、こんなにも自分の記憶をなぞっているような感覚になったことはないくらい。覚えがないはずの心労が凄くて…(笑)。

吉田修一:それがノンフィクションとフィクションの大きな違いで、それが小説の魅力のひとつでもあるんだなって。

 

HDM:これはフィクションの小説で、エンターテイメントであるはずなのに、そう思えないんです。

吉田修一:フィクションとはそういう力を持ったものであると思うし。例えば、この小説の中に出てくる風景のちょっとした描写でも、ノンフィクションだと『誰かが見た風景』なんですけど、小説だと自分の肉眼で見たような感覚に陥るんですよね。

 

HDM:そうなんです。だから何と言うか、これはノンフィクションやドキュメンタリーを凌駕したフィクションなんだと思いました。

吉田修一:僕は、フィクションにしかできない役割というものがあると思っていて、いま仰って頂いたことがそのひとつであると思うんです。

 

HDM:あともうひとつ、作品を読み終えた後に大きく変化したことがありました。

吉田修一:何ですか?

 

HDM:いつも、例えば神社なんかでお祈りする際は当然のように「安全でありますように」と、“受け身”の立場として口にしていたんですけど、今作を読み終えた後に生まれて初めて「他人の安全を壊すようなことをしないで済みますように」と祈ったことです。その可能性が、同じく自分の中にもあるのかも知れない。そしてそれは、いつもの理性が届かないところで起こるのかも知れない、ということを今作で突きつけられた結果なんだと思っていて。

吉田修一:(笑)。サイン会に来て下さった女性の方も、同じことを仰られていました。「いつか自分が罪を犯すんじゃないだろうか」って。それは、書き手としては有り難いですよね。…有り難いと言っていいのかな(笑)?何と言うか、自分自身と物語が“地続き”になってもらえたことが。小説って、不思議と自分の人生や生活と自然に繋がることがあるんですよね。感覚や記憶と繋がるというところから、その“恐ろしさ”が生まれ出てきたんじゃないのかな。

 

HDM:書き手である吉田先生自身も、ずっと書かれていた世界と“地続き”の感覚を持っていらっしゃったんでしょうか。

吉田修一:僕ももちろん地続きなんですよ。僕は、さっきも言ったように“犯罪者側”としての立ち位置であることが基本なので、自分と同じような生活…例えばふらっと居酒屋に行くような男が、あるきっかけでその後に犯罪者になるという可能性については非常にフラットなんでしょうね。違和感がまったく無いというか。だから、犯罪を犯した人間を書くと言っても、自分をわざわざ無理矢理はめ込もうとしなくても、ごく自然な生活環境でいることができるんです。やっぱり、根本的な部分で『犯罪者』を書こうとしていないんですよね。普通に、誰しもに有り得ることであるということであって。

 

HDM:以前、ある作家さんに「倫理的に常人である人間が、サイコパスや殺人犯、犯罪者といった人物像をどうやって描くのか?」という質問をさせて頂いたのですが、その答えが「その“常人”が持ち合わせている倫理や常識、同情心といったものをすべて取り払えば、出来上がる」と仰っていたんですが、吉田先生はいかがですか?

吉田修一:そうか(手を叩いて)!そうなんですね。僕はね、まったく逆ですね。

 

HDM:むしろそういった感情が必要であると。

吉田修一:理性とか同情心とか倫理とか、そういったものを詰め込むだけ詰め込んで、それがマックスにまで達すると犯罪を引き起こしてしまうと思っています(笑)。

 

HDM:そうか(笑)!

吉田修一:例えば、“常人の感覚”を100%持っているとしたら、その全部を使いこなすことってできないと思うんですよ。だからそれぞれの場面や状況で、50%あたりでうまくコントロールしているんじゃないかと思っていて。だから、同情しなければいけないところで同情を避けてみたり、そうすることでまともでいられるようにコントロールしているんだけど、コントロール不全になってその感情をマックスにまで使い切ってしまうと、バランスが崩れてしまうんじゃないでしょうか。

 

HDM:人間性が爆発してしまうような。先生は今作について「こんなにも感情のコントロール不全に陥ったことはない」と仰られていましたが、特にどの登場人物に一番感情が揺さぶられましたか?

吉田修一:それは全員なんですよ。意外に思われるかも知れないですが、僕は犯罪者側で書いているとは言っても「犯人に犯罪を犯して欲しくない」という気持ちで書き始めるんです。

 

HDM:そうなんですね?それは…意外です。

吉田修一:愉快犯は除いて、犯罪者は自ら犯罪を犯したいわけじゃなく、犯さざるを得ない状況に否応無く向いて行ってしまうことがあると思うんです。だから、書く側も「犯罪だけは犯さないように」という気持ちで書いているんですよ。

 

HDM:気をつけているんですね(笑)。

吉田修一:気をつけているんです(笑)。この人が…というか“自分”が犯罪を犯さないようにと気をつけてはいるんですが、結局、犯罪に向かっていってしまうんです。だから、書き手として自由に書いているつもりでも、まったくコントロール不全になっていると言えますよね(笑)。

 

HDM:確かにそうですね(笑)。コントロールで言えば、物語の中には…何と言うか“醜悪な人間たらしさ”の描写があらゆるところに出てくるのですが、こういったことを表現する際に、吉田先生の中の“常人”が邪魔してきたりはしませんか?先生自身の人間性ではできないことをやらせる、ということについて。

吉田修一:すごくあるんです(笑)。だから小説を書いている時って、自分というものがすごく邪魔なんです。その中の人物と同化というか、なるべく物語の中に入り込んでいるんですけど、そうできている時って、普段の自分では想像できないような言動がやっぱり出てくるんです。例えば『曼珠姫の午睡』のテニスの試合をする場面で「負けるはずなのに負けないところが気持ち悪い」という台詞があるんですが、僕は普段人に対して「気持ち悪い」なんて言葉は使わないし、まずそういう状況に対してそう感じることも無いんです。でも、その時はその登場人物である女性になりきっているので「気持ち悪い」という感情と言葉が出てきましたね(笑)。

 

HDM:特にその物語と言葉は、女性性ならではのいやらしさが顕著に出ていました(笑)。

吉田修一:ですよね(笑)。多分ね、自分の中に存在している感覚なんでしょうね。それが普段は隠されていて、出てきていないだけのことで。ああやって、何週間も“他人”という当事者になるというのはすごく不思議なもので、『百家楽餓鬼』を書いている時には、本当に十何億の借金を背負っている気分で目が覚めるから、すっごく嫌でした(笑)。

 

HDM:まったく身に覚えのないストレスに苛まれていたんですね、辛かったですね(笑)。先生は“善悪”の棲み分けについてはどう考えていらっしゃいますか?

吉田修一:善と悪に関しては、表裏一体というより繋がっているもので、いつでも入れ替わりが可能なものなんじゃないかと思っています。この小説の中では、罪を犯してしまった人たちはそうなりたくて進んだわけではなく、何かのきっかけでそのどちらかが入れ替わってしまっただけで。善と悪は、対峙する人によってそれぞれの解釈が違っているし、すごく…曖昧なものだと思いますね。

 

HDM:それでは『罪』繋がりで、吉田先生が今までで犯した一番大きな罪は何ですか?

吉田修一:そうだなあ、今までで犯した一番大きな罪…罪…って、無いですよ(笑)!でも、人を裏切るようなこと…例えば、自分を信じ切ってくれている人の期待を裏切るようなことをしてしまった時の、あの罪悪感はキツいですよね。

RELEASE INFORMATION

吉田修一|常人と犯罪者 曖昧な境界線

吉田修一 / 犯罪小説集


人はなぜ、罪を犯すのか?
失踪した少女を巡り、罪悪感を抱え続ける人々。
痴情のもつれで殺人まで行き着いたスナックママ。
名家に生まれながらギャンブルの沼にはまった男。
閉鎖的な過疎の村で壊れていく老人。
華やかな生活を忘れられない元プロ野球選手。
犯罪で炙り出される人間の真実。
凄絶で哀しい 5 つの物語。


KADOKAWA
四六判並製 / 336頁
1500円(税別)
豪華函入り「愛蔵版」 2500円(税別)
2016年10月15日発売

ARTIST INFORMATION

吉田修一


1968年長崎県生まれ。97年に『最後の息子』で文学界新人賞を受賞し、デビュー。2002年には『パレード』で第15回山本周五郎賞、『パーク・ライフ』で第127回芥川賞を受賞。『パレード』は後に行定勲監督により映画化された。07年朝日新聞に連載していた『悪人』で第61回毎日出版文化賞と、第34回大佛次郎賞を受賞する。その他主な著書に『さよなら渓谷』、『横道世之介』などがある。また作品は英語、仏語、中国語、韓国語にも翻訳。世界で注目される日本人作家でもある。

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