CHICO CARLITO|30歳になったら沖縄に帰りたい

CHICO CARLITO|30歳になったら沖縄に帰りたい

interview by SEIRA YONAMINE photo by ARISAK / SHINTARO KUNIEDA

インタビュー当日、偶然にも「今日で上京してちょうど4年が経ちました」というCHICO CARLITO(チコカリート)は沖縄出身のラッパー。5年前にヒップホップを聴きだすと同時にラップを始め、バトルシーンから成り上がり、現在ではモンスターとして『フリースタイルダンジョン』にてレギュラー出演をするなど、超新星でありながら日本語ラップシーンのトレンドセッターとして君臨している。だが、それは彼にとっては“ライヴをする為”の過程であり、またその先には“地元沖縄へ帰る為”の真理だと語った。そして、昨年12月に待望のファーストアルバム『Carlito’s Way』を発表し、4月下旬には本望とも言える沖縄でのリリースパーティーを控えている。彼は大都会東京から常に沖縄をレペゼンし、オリオン座の様に南の星として輝いていた。

 

 

HDM:ヒップホップを聴き始めたのは?

CHICO CARLITO:高校卒業してプラプラしてた時期に、那覇市の国際通りでラッパーの唾奇と知り合って、クラブに誘われて、その時に日本語ラップを始めて聴いたんです。(唾奇の)先輩がMCバトルに出場するからって連れられて…最初はまったく乗り気じゃなかったんですけどね。行ってみたらバトルでその先輩が優勝して賞金10万円を獲得したのを見た時に、「これで10万貰えるんだったら俺にもできるわ」って、ラップしたこともないのに思ってね(笑)。その日の帰り道からフリースタイルを始めて、そのままのノリで1ヶ月後には自分もバトルに出場していました。なので、僕はヒップホップを聴き始めたのと同時にラップも始めたんです

 

HDM:てことは、ヘッズの時期が無かったんですね。

CHICO CARLITO:そうなんです。ヒップホップを聴くまでは、パンクロックだったり海外のバンドをよく聴いていました。一時期はバンドもやっていて、当時一緒にバンドをやっていた仲間たちとも「いつかフィーチャリングしような!」って話もしてます。実現させたいです。

 

HDM:バンドを辞めた理由は?

CHICO CARLITO:ギターをやってたんですけど、なんかしっくりこなくて…今思うと、もっと自分にハマる音楽を探してたのかな?って思います。辞めてなかったらラップもしてなかったと思うんで。

 

HDM:ヒップホップを聴いた時に通ずるものがあったんですか?

CHICO CARLITO:例えば、「ゲットーな育ち」だったりっていうラッパーによくありがちなバックグラウンドは俺には無いんですけど、ハマったキッカケはリリックがストレートだったり、日本語の使い方が上手かったりっていうところに面白みを感じました。それに単純にカッコいい。

 

HDM:バンドをやられたり、昔から「音楽で何かやりたい」っていう想いが強くあったんですか?

CHICO CARLITO:そういうのは特に無かったですけど、小さい頃から歌ったり踊ったりするのが好きでした。1歳の頃のホームビデオを観ると、オムツ姿で踊ってる自分が写ってて、やっぱりこの頃から音楽に触れてたんだなって思いました(笑)。

 

HDM:幼少期から音にのっていたんですね(笑)。じゃあ、ラップを始めたキッカケは、「俺にもできる」って単純に思ったからなんですね。

CHICO CARLITO:そうっすね。それが一番のキッカケです。

 

HDM:その直感が原点なんですね。初めて出場したバトルはどうでしたか?

CHICO CARLITO:速攻で1回戦負けっすね(笑)。その悔しさから一気に火が着いて、歌詞を書くことだったり、フリースタイルだったり、頭の中に言葉がバーっと出てきて、寝れなくなるまで没頭しました。「明日何時に起きようかな?」って考えただけで韻を踏もうとしたり…。フリースタイルし過ぎてゲロ吐いたこともあります(笑)。もともとブレーキがかけられないくらい没頭するタイプなんですよ。ゲームとかもやりだしたらクリアするまで寝ずにやり続けちゃうタイプです(笑)。

 

HDM:超追求型なんですね(笑)。当時の沖縄のヒップホップシーンはどうだったんですか?

CHICO CARLITO:俺らはまだ何もやってなかったんで、蚊帳の外だったんですけど、RITTOさんやCHOUJIさんのステージをスゲーなって思いながら見てました。沖縄のラッパーの先輩で最初に遊んでくれたのがCHOUJIさん。唾奇がMPCを買って、使い方をトラックメイカーをやっている先輩のスタジオで教えてもらっている時に偶然CHOUJIさんが遊びにきたんで、その時初めて自己紹介をしたんです。そしたらCHOUJIさんが、「それじゃあ、ワンメイクするか」ってなって。先輩がビートを作ってくれて、CHOUJIさんと唾奇と俺の3人で曲を作ることになったんです。けど、その時俺が重症の鼻炎で曲の仕上がりが聴けないくらい酷くなってしまって…。その時の悔しさがずっと残ってたんで、今回のアルバムでもう1度3人で『一陽来復』という曲を作ってリベンジさせてもらいました。

 

 

HDM:ラップを始めてからは、どういう活動をしてたんですか?

CHICO CARLITO:国際通りに溜まってばかりで特に何もしてなかったです。飲んで遊んで朝帰宅して夕方起きて、また国際通り行って観光客ナンパして、クラブ行って…そういう生活を繰り返してました。本格的に活動を始めたのは沖縄を離れて上京してからなんです。

 

HDM:大学で上京してからはどういう活動をしてたんですか?

CHICO CARLITO:大学通いながらラップしたいなって思ってたんですけど、誰も知り合いがいないから色々ネットで調べてたら、「北千住でサイファーをやってる」っていう情報をゲットしたんで、1人でドキドキしながら参加させてもらうようになって、そこからバトルも出てみるかってなって。上京して初めて出場したバトルでベスト8まで勝ち進んだんですよね。そのバトルで倒したのが、2006年UMB優勝者のカルデラビスタさんだったんです。上京する前はずっとバトルで1回戦負けしてたけど、これをキッカケに初めて自信がつきました。けど結局そのバトルでは優勝できなかったので落ち込んでたら、その日たまたまRITTOさんのライヴがあったんで遊びに行って、RITTOさんのステージにクラちゃって号泣しました(笑)。そこからラップ漬けの日々が始まりましたね。バトルを続けながら、曲も一生懸命書きました。

 

HDM:「ラップで成り上がる」という思いはあったんですか?

CHICO CARLITO:うーん、最初はただ楽しいからっていう気持ちでやってたけど、どうせバトルに出るならお金も欲しいし勝ちたいっていう考えになって。音源作ったからライブしたいけどどうやったらライブをできるのかわからなくて、それじゃあバトルで勝ちまくって名前を広めようっていう考えになって。バトルで結果が出てきて名前が少しづつ広まってきた時に、TK(da黒ぶち)君 に出会って、『大脱走』っていうイベントで初めてライブすることになったんです。上京した年の夏のことですね。

 

HDM:上京してからライブに至るまでのスピードが早いですね。

CHICO CARLITO:そうなんですよ。なんで俺は初めてライブをしてからまだ3年しか経ってないんです。本格的に曲を作りだしたのもその頃くらいなんで、まだまだ駆け出しっす。

 

HDM:ヒップホップを聴き始めてからラップ歴がほぼ同時でここまでの急速なレベルアップは本当に凄いです。天性、努力は勿論ですが、この自分の立ち位置についてどう思いますか?

CHICO CARLITO:俺は本当にラッキーっす(笑)。

 

HDM:プレッシャーとかは?

CHICO CARLITO:それは勿論あります。『フリースタイルダンジョン』で“モンスター”になった頃くらいから物凄いプレッシャーに襲われました。もともとはチャレンジャーで出場した後にZeebraさんから電話がかかってきて、「モンスターを増やすからCHICOになって欲しいんだけど」って言われて、ふたつ返事で受けました。ラップを始めてから経験したことのない大きな渦に飛び込んで、そこを回して行く側になるのかって…。ある意味決心した瞬間でしたね。業界の裏側も見えたし去年は沢山のことを学んだ1年で、刺激的で自分のキャリアにとってターニングポイントになりました。

 

HDM:怒濤の1年を振り返ってみてどうですか?

CHICO CARLITO:いや~、正直大変でした(笑)。自分もまだ22歳だったんで。

 

HDM:モンスターとしてレギュラー出演して、どういうお気持ちですか?

CHICO CARLITO:僕がやりたかったことをかなえさせてくれたので、フリースタイルダンジョンにはかなり感謝しています。

 

HDM:フリースタイルダンジョンでの経験を経て、ライブする為にバトルで名前を広げるっていう方程式がかなったんですね。

CHICO CARLITO:そう!最初に考えた自分なりのプランは間違ってなかったと思いました。バトルをやり続けて、フリースタイルダンジョンに出ることで名前が広がって、多くの人に興味を持ってもらえるようになって、音源作って、ライブして、色んな人と繋がれて…すごく楽しいです!全国各地に呼ばれるようになるには、“バトル”じゃなくて“ライブ”でしょって思ってたんで。昨年末にはアルバムもリリースすることができて、今では各地でライブもさせてもらっています。本当にありがとうございます!

 

HDM:急成長する過程において、理想と現実のズレに葛藤とかってありましたか?

CHICO CARLITO:逆にここまでが上手くいき過ぎてると思うんで、大事なのはこれから先ですね。でも2015年の上半期は全然上手くいかなくて、もうラップ辞めようかなって思うくらいキツかった時期もありました。まわりがパクられていなくなっちゃたり、ライヴをやっても自分が思ってるよりしっくりこなかったりして、その頃はかなり葛藤してました。でも、「作品をひとつも出さずに辞めるのはダサ過ぎるな」って思ってた時に、フリースタイルダンジョンでチャレンジャーのオファーを頂いたのを機に好転していきました。そこからバトル漬けで一気に突き抜けた感じです。逆にバトルし過ぎてキツくなったりもしましたが…。

 

HDM:バトル漬けだと精神的に殺伐としちゃいそうですね(笑)。

CHICO CARLITO:そうっすね。常にピリピリしちゃって全然優しくなれないです。目に入るモノすべての粗探しをしちゃうし。今振り返ってもあの時はイライラしてたなって思います。でも(UMB 2015で)優勝した時に、大変だったけど辞めなくてよかったって思いましたね。

 

HDM:改めて、優勝おめでとうござます。

CHICO CARLITO:ありがとうございます。そこから激動の2016年に突入する訳ですよ。

 

HDM:その激動の幕開けは?

CHICO CARLITO:優勝を機にいろんなレーベルから「作品を出さないか?」って声をかけてもらいました。自分でも浮き足立ってしまい、どうしてよいかわからなくなってましたね。周りに「これからどうすんの?」って聞かれて、最初は「どこか適当なところからEPでも出そうかな」って答えて帰宅したんです。そしたらその後すぐにまた連絡をくれて、夜中の3時からラーメン屋で再度会議が始まったんです。そこで自分が出した答えは、「昔から一緒にやってきた仲間のレーベルからアルバムを出したい」だったんです。芯がブレかかってた時期でもあったんで、いい決意だったと思います。みんなも「一緒に最高のアルバムを作ろう」って言ってくれて。その翌日から制作に入りました。

 

HDM:構成は考えてたんですか?

CHICO CARLITO:曲を作る前に先に構成を考えたんです。1曲目から5曲目までは沖縄の話、6曲目から10曲目までは上京してからの話、10曲目から13曲目までは「ここから頑張っていくよ」みたいなイメージで。フィーチャリングの曲順が変わったくらいで、ほぼ最初の構成通りで仕上がってます。

 

HDM:フィーチャリングはほぼ沖縄のラッパー勢ですね。

CHICO CARLITO:はい。全員尊敬するシージャー(沖縄方言で「先輩」)達と、友達の唾奇と、同じクルー(BANG DA RHYTHM)のTENGGとARISTOと。自分の身内で固めました。

 

HDM:ファーストアルバムにとって相応しい面々ですよね。アルバムの裏設定とかってあるんですか?

CHICO CARLITO:RITTOさんとの曲『Orion’s belt』からスキットを挟んで、D.D.Sさんとの曲『Champ Roots』に繋げられたことですかね。あの2人は確執があるんで(笑)。あと裏設定になるかはわからないけど、アルバムの収録時間が約46分なんですけど、俺が住んでる草加駅から半蔵門線に乗って渋谷駅に向かうには丁度よい長さなんですよ(笑)。

 

 

HDM:初めてのアルバム制作をしてみてどうでしたか?

CHICO CARLITO:めっちゃ楽しかったっす!スタジオにいたらずっと曲作れますね。ただ、エンジニアをしてくれたBUZZER BEATSのSHIMI さんがいなかったらアルバムは完成していなかったと思います。制作中にめっちゃ仲良くなって家に泊めてもらったりもしました。お子さんがいるんで朝一緒に見送ったりして(笑)。初めてちゃんとしたスタジオで録ったし、制作中も俺のワガママに向き合ってくれて、気も合うし、いろんなことを教えてくれました。本当に楽しかったです。

 

HDM:このアルバムを作る前はあまり曲を制作していなかったんですか?

CHICO CARLITO:そうなんです。『C.H.I.C.O』っていう曲しかできてなくて。なのでアルバム制作はゼロからのスタートでした。

 

HDM:そんな簡単に曲って作れるもんなんですか?

CHICO CARLITO:レコーディングを始める前に、エンジニアの方に自分が考えたアルバムの構成を細かく伝えたんですよね。1曲も作ってないのに(笑)。その時にエンジニアの方に言われたのが「こんな決め打ちで持ってきた人あんまりいないよ」って。「もっとみんなラフな感じでシングルっぽいのを作って、そこから足りない要素を埋めて行くようにして作っていくんだよ」って。俺もアルバムなんて作ったことないから全然わからなくて(笑)。制作で1日以上かかった曲は最後の『RH-』だけで、他のはスラスラかけました。

 

 

HDM:曲を書く時にインスピレーション受けるものは?

CHICO CARLITO:普段生活しながらインスピレーションを受けるものは沢山あります。実際に街で小学生を見かけて、「母親に抱かれた赤ん坊 すれ違う少年とサッカーボール 誰もが登って行く階段を 年重ねる喜びありがとう」っていう情景のワードが浮かんだり。意識してるわけじゃないけど、そういう誰もが思い浮かべられる情景だったり風景だったりを歌えたらいいなって思います。基本的には自由に書いてます。

 

HDM:もうアルバムを発表してから4ヶ月が経ちましたが、改めて本作品をどう思いますか?

CHICO CARLITO:「青いな~」って思います(笑)。

 

HDM:もう既に?

CHICO CARLITO:はい(笑)。でもいいもの作ったと思っています。“ザ・ファーストアルバム”って感じですね。

 

HDM:個人的にはRITTOさんとの曲『Orion’s belt』すごい好きですね。ああいう社会派な曲。

CHICO CARLITO:ラッパーは“街の詩人”なんで。だからみんな自分のHOODのことを歌うんですよ。俺は上京して内地(本州)から見た沖縄を感じることができたんで、だからこそよい曲が書けたなって思います。

 

HDM:CHICO CARLITOさんは、沖縄からすると逆輸入的な感じがありますよね。

CHICO CARLITO:それはめっちゃあると思います。だけど内地から沖縄ゴリゴリのアルバム出すっていう(笑)。俺はどうせいつかは沖縄に帰るんで、内地にいる間にいろんなことを経験して、30歳位には沖縄に帰ろうかなって思ってます。

 

HDM:現在24歳ですよね?ってことは6年後には帰沖予定?

CHICO CARLITO:だって今でも沖縄帰りたいもん(笑)。最近めちゃくちゃ思うことがあって、ずっと都会で育ってきた人とは、経験値や人間の性質が全然違うなって感じました。小学生が電車で栄養ドリンク飲んでるの見て、「お前、めっちゃ疲れてるじゃん」って(笑)。埼京線の通勤ラッシュとかもヤバいっすよ。田舎と都会じゃ朝のテンションもまったく違うんだなって。まあ、何が良い悪いとかじゃなくて、そこは違って当たり前というか。内地に住んだからこそのいろんな経験もできたし、だからこそ「俺って沖縄の人なんだな」って改めて凄く感じてるし、「帰る場所だな」って思いました。

 

HDM:沖縄に帰ろうと思ったのは何故?

CHICO CARLITO:まず、気温が寒いの無理っす(笑)。あと、もしここで結婚して子供が生まれて、子供が標準語で喋るのが嫌っすね(笑)。自分の子供は絶対に沖縄で育てたいっす。

 

HDM:アハハ!なるほど(笑)。こうやって内地でラッパーとしてのキャリアを積みながらも、やっぱり沖縄への気持ちは強いんですね。

CHICO CARLITO:そうですね。ってか、そうじゃなきゃダサイっしょ!田舎から上京して都会に染まって、何かあると「レペゼン東京」みたいなこと言ってたらダサイ。俺がずっと東京のこと歌っててもおかしいし。

 

HDM:CHICO CARLITOさんにとって内地から見た沖縄はどう写っていますか?

CHICO CARLITO:歌詞でも言ってるんですけど「近くて遠い日本」だと思っています。離れてるし、リゾート地だし、日本じゃないみたいですよね。沖縄にいい印象を持ってくれてる人が内地に沢山いるのも嬉しいです。だからこそ沖縄のことをもっと知ってほしいから曲を書いてます。

 

HDM:沖縄に対して思うことは?

CHICO CARLITO:それめっちゃ難しいですね。俺の世代より下になればなるほど、沖縄の方言とかも喋れなくなっていくし。戦争を経験したオバーとかもいなくなっていくし。世界の軍事的な理由としても大事な場所だから、また何か“新たな時代の波”に飲まれないか心配ですね。

 

HDM:沖縄出身だと、基地問題についてもよく聞かれるんじゃ?

CHICO CARLITO:そうですね。基地問題はすごく難しい質問なんで、うまく答えられるか分からないんですけど…俺の意見としては、戦争が起こる前にオバー達が過ごしてた時代に見ることができた「基地側の海」が見てみたいっす。俺らは生まれた時から基地があるから、無かった時の沖縄だけの景色を見たいっすね。本当に何ひとつ(軍事的)問題が無くなって、(在日米軍が)撤退して、街の建設が進んで、経済的困窮も解消されて、沖縄が自立してちゃんと発展していけるようになるなら、基地なんてものは無い方がよいに決まってます。やっぱり基地があったら狙われるもん。俺がもし司令官だったら重要なところ(沖縄)から潰していくもん。けど、沖縄には実際基地ありきで生活してる人も沢山いるから。難しくて根深い問題だと思います。

 

HDM:歌詞中に「俺の身体に米軍の血」と、自身の血筋と沖縄の歴史に対しての葛藤がありますが。

CHICO CARLITO:俺には4分の1プエルトリコの血が入ってて、そのプエルトリコ人のオジーが米兵だったんです。生まれてからオジーの顔も見たことないし、オバーや家族に聞いても誰も教えてくれないんですよね。プエルトリコも島国でアメリカの属国だった時代が長いんですよ。そして沖縄も戦後アメリカに占領統治されていた時代もあるっていう血筋からか、デカいものへ対しての劣等感や敵対心を感じたりすることもありました。そういう“DNA”が受け継がれてるのかなって。

 

HDM:CHICO CARLITOさんの名前「CHICO」はお祖父さんのあだ名からつけてるんですよね?葛藤はあるんでしょうが、やはりお祖父さんの血筋を感じるからでしょうか?

CHICO CARLITO:俺はオジーと会ったことないからどんな人だったかも分からないんで、そこにバックボーンを感じてるのかは分からないです。逆に、俺はオジーみたいになりたくない、オバーみたいに一生懸命働いて強く生きたいと思ってたんです。オバーは小学6年生の頃から学校にも通えなくなったから、いつも俺に「勉強がんばって!」って言ってくれました。たからオバーの分まで一生懸命頑張って大学まで進学したけど、結局安定した道には進まなかったなって…。だからやっぱりどっかでオジーの血も流れてるんだろうなって(笑)。

 

HDM:でもCHICO CARLITOさんの潜在意識の中で重要な部分となっているのかもしれないですね。沖縄と内地のヒップホップシーンを比べて思うことはありますか?また、そこで挑戦してみたいことは?

CHICO CARLITO:沖縄は日本のヒップホップシーンとしてメインストリームじゃないからこそ、土臭くて生々しい熱さがあるんですよ。都会から発信される音じゃないから荒さも残ってライブの圧が強くなる。だけどそのシーンをサポートする環境が整ってないから、内地からはヴェールに包まれているんです。けど、もっと沢山の人に注目してもらいたいんで、俺はここ東京でいろんなことを経験して、学んで、お金を稼いで、そして沖縄に帰ったら、自分のレーベルを作ってカッコいいヤツらをどんどん内地に進出させていけるパイプを作りたいと思ってます。それまでに、フリースタイルダンジョンやりきって、ライブで全国まわって、新たによい曲を作れるように頑張ります!

RELEASE INFORMATION

CHICO CARLITO|30歳になったら沖縄に帰りたい

CHICO CARLITO / Carlito's Way
Timeless Edition Rec.
TERCD-004
2000円(税別)
2016年12月07日発売

  • facebook
  • twitter
  • pinterest
  • line
  • Tumblr